格五は、宋朝以後文献の中に存在するだけで、実際にプレーした絵画や図は、見つかっておらず、 古典にのこされた断片的な文から、このようなゲームではないかと推測されています。 以下の資料にもあるように、跳び将棋 / 跳び碁や、HalmaやChinese Checkers / ダイヤモンドゲームと発想を共有するゲームです。
日本語の情報はほとんどないため、 中国語圏のサイトから情報収集をおこないました。*1
中国語のWikipediaには、次のように記されています。
格五、または塞戲、簺戲、蹙戎、蹙融,中国古代の二人対戦の棋類ゲーム、 直線Chinese Checkers / ダイヤモンドゲームです。
日本人は格五を五目並べと間違いましたが、ルールと勝利条件は全く違います。
このゲームは秦漢時代に(当時塞戲または格五と呼ばれていました)流行しました。 文献には象棋(将棋)と継承関係があるといった記述はありません。 中国湖北雲夢西漢墓から発掘された塞戲の碁盤と甘肅武威磨嘴子漢墓から発掘された塗りの木製人形で、 漢代邊韶《塞賦》に記載された塞戲のやり方を検証できます。 南北朝に《簺法》や《簺經》格五専門の書籍まで出ました。 唐朝の顏師古注《漢書》も大体同じ書籍と見られます。 書籍の解説によると、格五のようなゲームはお互いの碁石の行き方を塞いで、相手に動かせないようにすることが目的です。
互动百科には、以下のように記されています。
格五は漢朝から齊朝の史書に記載されました。漢朝初期の吾丘寿王、漢朝後期の梁冀、 齊朝の沈文季とも格五の名手でした。《漢書》の顏師古*2の解説はこのゲームに対する現存の一番古い解説文献です。 また、顏師古と同じく唐朝初期の人物であった李賢は《後漢書》の解説でこのゲームに触れています。 彼らの解説によると、唐朝初期かもっと前か、このゲームは簺という名前 で知られることになったため、格五という名前を知る人は少なくなったようです。格五または簺は、漢朝から南北朝までは人気のあったゲームで、専門の書籍が出版されたという記述もあります。 格五または簺(のルール)には、唐朝以後さらに変化がありました。 多くの学者が検証をしましたが、いまも具体的な遊び方は不明です。 格五に関する記事は宋朝初期の楊侃の《兩漢博聞》、黄朝英の《靖康緗素雜記》、 有名の《說郛》、《玉芝堂談薈》、《通雅》、さまざまな書籍に記載されました。 《漢書》 と《後漢書》以外の書籍は格五ともう一つ蹙融というゲームを繋いで、 宋朝の蹙融は古代の格五であると考えました。(正しい書き方は蹙融か蹙戎か、 まだ異論があります。)蹙融や蹙戎は唐朝宋朝の言葉ですが、これが 本当に古代の格五であるのかどうか、はっきりしていません。
- 《靖康缃素杂记》
- 「世俗有蹙融之戏,谓以奕局取一道,人各行五棋,即所谓格五 也。」
- 《梦溪笔谈》
- 「蹙融或谓之蹙戎,《汉书》谓之格五,虽止用数棋,共行一道,亦有能否。 徐徳占善移,遂至无敌。其法已常欲有余裕而致敌人于险。虽知其 术止如是,然卒莫能胜之。」
両書籍とも、蹙融は格五であるとしてありますが、証拠はありません。 しかし、この解釈は採用されています。
- 《酉陽雜俎》
- 「小戲中於奕局一枰,各布五子,角遲速,名蹙融。予因讀《坐右 方》,謂之蹙戎。」
ここでも蹙融は蹙戎と書くべきとしていますが、格五と同じものであるとは書いてありません。 ゲームの遊び方を見ると、格五では相手の碁石の行先を塞いで動けないようにしますが、 蹙戎では自分の碁石をなるべく早くゴールに到着することを目的としています。
格五は碁石5個を使いますが、蹙戎は5個または6個を使うとも言われていますので、この二つは違うゲームであるとも推察できます。
碁盤を用いて、プレーしたともいわれています。 碁盤を使う場合は、19路のうち1路のみを用いて(19x1のボードとして)プレーします。 碁石は、それぞれのプレーヤーが自分の色を選び、それぞれ5個ずつボードの端から 並べてゲームを開始します。
各手番でプレーヤーは、
自分の碁石を5個全部を相手のスタート地域に先に移動させたプレーヤーが勝ちです。
5個碁石を相手のスタートに移動させても、 相手が4個を自分のスタートに移動させた場合は引き分けとなります。
格五は、五目並べのページへの(おそらく台湾の方による)コメントをきっかけに調査をしました。